シティポップとAI

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Xのタイムラインには頻繁にSUNOで作った音楽が流れてくる。その中にはシティポップ風の曲も少なくない。Youtubeにはそうした楽曲が多く、特に最近はその傾向が強い。シティポップは日本初の70年代から80年代にかけてブームになった。竹内まりや、山下達郎、オザケン、角松敏生などなど。キラキラした楽曲が多くて僕もよく聞いていた。

あの頃の音が、まだ耳の奥で鳴っている

YouTubeで“city pop”と検索してみる。サムネイルは70年代風の女の子、リストにはそれ風の曲名。再生すると、確かにシティポップ風の音。コード進行もリズムも、それっぽい。僕は音楽にわけではないので「よくできているなぁ」と思ってしまう。でも、ただそれだけで聞き続けることはない。

というのも、シティポップをリアルタイムで聴いていた世代だから。10代から20代という、音楽が体の奥にまで染み込む年齢だった。夏の夜、ネオンの光、友人の笑い声、車の窓から入り込む潮風。それらが全部、音楽と一緒に記憶されている。AIがつくるシティポップ風の音は、どんなにうまくてもそこに辿り着けない。

記憶というもうひとつの楽器

音楽はメロディーだけではない。音の後ろにある空気、温度、光景、そのときの自分の心の震えもまとめて封じ込める装置だ。僕にとってのシティポップは、単なる“曲”ではなく、あの時代の“生”そのものだった。

AIはパターンを学び、音を並べることはできる。でも、僕の記憶の中にある“街の匂い”や“夏の湿度”までコピーすることはできない。なぜなら、それは音楽そのものではなく、音楽とともに過ごした時間だからだ。

変わってしまった音楽との距離感

最近1か月に絞ってYouTubeを探してみると、AI生成のシティポップ風楽曲がずらりと出てくる。リアルなシティポップを知らない人なら、これでも十分に“シティポップ”を感じるかもしれない。それを否定するつもりはない。音楽の向き合い方が変わっただけだと思う。

僕たちの世代にとって、音楽は体験だった。レコード屋に足を運び、ジャケットを手に取り、針を落とし、部屋の空気ごと吸い込む。今のリスナーにとって、音楽はもっと流動的で、背景的な存在なのかもしれない。

BGMとしてのAI音楽、体験としての人間の音楽

不思議なことに、BGMとして流す分にはAI音楽でも構わないと思っている。カフェで流れるジャズ風、作業中のボサノバ風、そういう音楽には深い感情移入は必要ない。むしろ、適度に心地よく背景に溶けてくれれば十分だ。

技術と感性の境界線で

AI音楽を全否定するつもりはない。技術は止められないし、そこから新しい表現の可能性が開くこともあるだろう。でも、音楽が本質的に持っている価値や人間の体験と結びついた“記憶の装置”としての機能は、技術では置き換えられないと信じている。

シティポップが再び注目されるのは、きっとあの時代の空気感に憧れる人が多いからだ。でもAIが生成するのは音楽の表層だけのような気がする。本当の「シティポップ体験」は、あの時代を生きた人たちの記憶の中にしか存在しない。

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