米国債が売られているのはなぜか?この疑問に対する明確な答えを見つけるのは容易ではありません。日経新聞の2025年4月18日の記事でも、その背景にある複雑な要因が示唆されています。2025年4月、トランプ大統領の関税ショックをきっかけに米国債相場は一時的に急落し、長期金利は大きく上昇しました(債券価格は下落)。本稿では、この米国債の売りを引き起こした可能性のある要因について、専門家の分析と最新のニュースを基に探ります。
当初の憶測:中国の売りか?
日経記事では、米国債売りの「犯人」として当初、中国の売りが噂されたことに触れています。実際、第一次トランプ政権下の米中貿易戦争では、中国は2018年からの2年間で米国債保有を1割近く減らしました。しかし、記事はベッセント財務長官が暗にこれを否定し、直近の10年債と30年債の入札では外国人の参加が増えたことを示唆する未発表データに言及したと報じています。また、FRBのパウエル議長も、債券市場が急変動した際に広まった見方が後になって誤りだったと判明することがあると述べており、中国の売りが主因であるという見方に慎重な姿勢を示唆しています。さらに、ニューヨーク連銀に海外当局が預ける米国債残高は、記事公開時点で2週連続で微増しており、安定した推移が続いていることが示されています 。これらの情報から、この時期の米国債の売りが主に中国によるものであった可能性は低いと考えられます。
ヘッジファンドとベーシス取引への注目
日経記事では、中国の売りではないとすれば、米国債を売ったのは誰なのかという問いに対し、「伏兵ともいえそうな取引」としてヘッジファンドの「ベーシス取引」が疑われたと指摘しています。ベーシス取引とは、ヘッジファンドなどが、現物の米国債を購入すると同時に、その先物を売却することで、両者のわずかな価格差(ベーシス)から利益を得ようとする戦略です。この取引は、レバレッジ(借金による規模の拡大)を大きくかけることで収益性を高めることが一般的です。エクイティ社の報告によると、ベーシス取引は、財務省証券とそれらの先物の間の価格差を利用するもので、ヘッジファンドはレポ市場を通じて最大50倍のレバレッジを利用してわずかなスプレッドから利益を得ています。連邦準備制度理事会(FRB)の分析も、ベーシス取引は財務省証券と関連する先物契約の価格差を利用する裁定取引であると説明しています。
市場にショックが起こり、この価格差が拡大したり、資金調達コストが上昇したりすると、ベーシス取引は損失を生む可能性があります。2020年3月のCOVID-19ショックや、2025年4月のトランプ関税ショックでは、先物価格が現物価格から大きく乖離し、マージンコールが発生したヘッジファンドがポジションを解消せざるを得なくなり、市場の流動性を悪化させる要因となりました。ステート・ストリート・グローバル・アドバイザーズ(SSGA)の分析によると、特に「速いお金」と呼ばれるレバレッジの高い投資家が、スワップスプレッドの拡大を狙ったポジションを構築しており、彼らが現物債を買い、スワップを売る(固定金利を受け取る)取引を行っていました。関税に関連した債券市場のボラティリティの急上昇は、リスクパリティファンドのデリスキング、トレンドフォロー型CTAによる加速、そしてベーシス取引の巻き戻しを引き起こし、これらすべてが財務省証券の売りにつながりました。
みずほ証券の上家秀裕シニア債券ストラテジストは、日経記事の中で、様々な指標や計量分析から判断すると、ベーシス取引の解消が今回の金利上昇の主因とは考えにくいと述べています 。ベーシス取引は通常、市場が安定している時期には流動性と価格効率性を高める役割を果たしますが、レバレッジと短期借入に依存しているため、危機時には脆弱です。ニューヨーク連銀の論文が、米債券市場の脆弱性につながるとしてベーシス取引に警鐘を鳴らしたばかりであることも、日経記事では言及されています 。
金利スワップ市場の異変と変額年金の影響
日経記事が注目するのは、固定金利と変動金利を交換する金利スワップ市場での異変、特に超長期30年のスワップ金利から国債利回りを引いた「スワップスプレッド」と呼ばれる指標が、株急落にやや遅れてマイナス幅を急激に広げたことです 。スワップスプレッドは、金利スワップの固定金利と、同期間の国債利回りの差を示すもので、市場のリスク認識や流動性を示す指標の一つです。通常、スワップ金利は国債利回りよりも高く、スワップスプレッドはプラスになることが多いのですが、マイナスになる場合は、国債利回りがスワップ金利よりも高いという異常な状態を示唆します。
日経記事では、この背景として、米国の変額年金の動向が示唆されています。株高局面で最低保障額が高まることが多い変額年金は、株安に転じると損失回避の必要に迫られます。そのヘッジ手段として有効な金利スワップで、大規模な買い(固定金利の受け取り)に動くことがあるといいます 。変額年金とは、投資信託のような形で運用される年金で、運用成績によって将来の受取額が変動するものです。株価が下落すると、変額年金の運用成績が悪化し、保険会社は契約者に保証している最低保障額を支払う必要が生じる可能性があります 。このリスクをヘッジするために、保険会社は金利スワップ市場で固定金利を受け取るポジションを取ることがあります。固定金利を受け取るということは、変動金利を支払うことになり、金利が上昇するリスクをヘッジする効果があります。
このような変額年金による金利スワップの買いが増えると、スワップ金利には押し下げ圧力が強くかかります。その結果、国債利回りよりもスワップ金利の方が低くなり、スワップスプレッドのマイナス幅が拡大することになります。日経記事によると、この動きを見込んでいた一部のヘッジファンド勢は、反対の動きとなり困惑したとされています 。
アセットスワップ取引とSLR規制の影響
日経記事は、国債利回りとスワップ金利が本来同じような水準でもよいはずなのに、実際にはスプレッドはマイナスが定着したままであり、現物債が割安(高い金利)に放置されている状況を指摘しています 。その理由として、債券という「モノ」特有の弱点、例えば財政悪化による国債の増発懸念や、金融規制が厳しくなって銀行や仲介業者が国債を抱えにくくなっている要因が挙げられています 。
ここで、規制緩和に前向きなトランプ氏が政権に返り咲く可能性が出てきます。補完的レバレッジ比率(SLR)と呼ばれる資本規制を緩め、国債をたくさん持っても指標が悪化しないようにする案が取り沙汰されました 。SLRとは、金融機関が保有する自己資本の額が、総資産額に対して一定の比率以上であることを求める規制です 15。国債などのリスクの低い資産であっても、SLRの計算上はリスク資産と同じように扱われるため、銀行が国債を大量に保有することは、自己資本比率を圧迫する可能性があります。
国債の割安感が和らぎ、スプレッドのマイナス幅が縮小すると踏んだファンド勢は、スワップ売り(固定金利の払い)と現物債買いを組み合わせるアセットスワップ取引を組んだ可能性があります 。アセットスワップとは、債券などの資産が生み出すキャッシュフローを、別のキャッシュフローと交換する取引です。この場合、ファンドは固定金利を支払うスワップを売り、代わりに変動金利を受け取り、同時に割安な米国債を購入することで、スプレッドの縮小から利益を得ようとしたと考えられます。年初以降のスプレッドのマイナス幅縮小は、こうした取引の存在を示唆すると日経記事は指摘しています 。
しかし、株安がもたらしたのは正反対のマイナス幅の急拡大でした。この賭けに敗れたファンド勢は損失を抱え、取引解消に伴う国債売却を余儀なくされたと日経記事は分析しています 。米財務省幹部がSLRの緩和に言及し、国債の需給改善に期待をつなぐ動きもあるものの、取引の解消は落ち着きつつあるとされています 。
今後の潜在的なリスク要因
日経記事の後半では、米国債市場における今後の潜在的なリスク要因についても触れられています。「根っこにある問題は何も解決していない」と野村証券のストラテジストは指摘しています 。
まず、中国経済が急激に下振れし、資本流出を招けば、大量の米国債売りを迫られかねません 。中国は依然として米国債の主要な保有国の一つであり、その動向は米国債市場に大きな影響を与える可能性があります。
次に、市場に動揺が再び走れば、積み上がったベーシス取引という「爆弾」が破裂してもおかしくありません 。レバレッジをかけたベーシス取引は、市場の変動が大きくなると、予期せぬ損失を生み、強制的なポジション解消につながる可能性があります。SSGAの分析では、市場が突然混乱し流動性問題が発生した場合、特に外部からのショックがあった場合に、レバレッジの高いポジションによるキャッシュ・フューチャーズ・ベーシス取引やキャッシュ・スワップスプレッド取引はリスクとなると指摘されています。アポロアカデミーの報告によると、ベーシス取引は現在約8000億ドル規模に達しており、米国政府の債務水準が成長し続けるにつれて拡大する可能性があり、市場の不安定要因となる可能性があります。
さらに、相互関税上乗せの90日猶予を引き出した米国債売りは、米財務省が規制緩和に動いたとしても、その狙いは市場安定そのものよりも、関税をテコにした各国とのディールの継続にあると日経記事は分析しています 。債券市場の次の反乱には警戒が怠れないと警鐘を鳴らしています。
結論
2025年4月に米国債が売られた背景には、複数の要因が複合的に影響していたと考えられます。当初の憶測であった中国の売りは、データからは裏付けられませんでした。むしろ、ヘッジファンドによるベーシス取引の動向や、金利スワップ市場におけるスワップスプレッドの急激なマイナス幅拡大、そして変額年金といった機関投資家のヘッジ戦略が、市場の変動に大きく関与していた可能性が示唆されています。また、SLR規制の緩和に対する期待と、それに伴うアセットスワップ取引の巻き戻しも、売り圧力の一因となったと考えられます。
今後の米国債市場は、中国経済の動向やベーシス取引の残高、そして米国の貿易政策といった、依然として多くの不確実性を抱えています。市場参加者は、これらの潜在的なリスク要因を注視し、慎重な姿勢を維持する必要があるでしょう。
潜在的な原因 | 影響のメカニズム | 支持する情報源 |
ベーシス取引の巻き戻し | 関税ショックやボラティリティ上昇により、マージンコールや損失が発生し、強制的な米国債の売却につながった。 | |
スワップスプレッドのマイナス幅拡大 | スワップ金利が国債利回りよりも低下し、国債の相対的な割高感が生じた。変額年金による固定金利受け取りの需要増加などが要因として考えられる。 | 日経記事, |
アセットスワップ取引の巻き戻し | SLR緩和への期待が外れ、スワップスプレッドのマイナス幅が拡大したため、損失を抱えたファンドが保有していた米国債を売却した。 | 日経記事, |
SLR緩和への不確実性 | SLR緩和の遅れや不確実性が、銀行による米国債購入を抑制し、売り圧力を悪化させた可能性がある。 | 日経記事, |
今後の潜在的なリスク(中国経済の減速) | 中国経済の急激な減速は、資本流出を引き起こし、中国が保有する米国債の大量売却につながる可能性がある。 | 日経記事 |
今後の潜在的なリスク(ベーシス取引の残高) | 市場が再び動揺した場合、積み上がったベーシス取引が強制的に解消され、さらなる市場の不安定化を招く可能性がある。 | 日経記事, |
トランプ政権下では最初は株が売られ、安全資産の債券が買われるともくろんでいたのに、なぜか株が売られ、債券も売られていた。私もトランプの中国への関税政策の影響で中国がアメリカ債権を打っていたものと思っていたけど、どうやら複数の要因のようでした。
おそらく、今回の関税政策の影響が数字となって表れるのは年後半あたりか。その頃になるとさらに株価が下がり、失業率が上がるようだと債権が買われると思っているけど、果たしてどうなるか?
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